2026/06/10

吉祥山登山155回目。

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吉祥山に登った。151か月連続155回目。吉祥山の山頂から南の方(豊橋市側)を見ると、豊橋新城スマートチェンジ(写真左下)が小さく見えた。右下は、中部電力パワーグリッド三河変電所。

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ズームで写してみる。スマートインターの取り付け道路の工事中だろうか。豊橋市側は、東名高速道路の下り線の出入り口となる。あの橋は柿景橋(かっけーばし)かな?
上り線は、新城市側。我が家からだと、今まで通り豊川インター利用の方が便利のような気がする。豊橋新城スマートIC(仮称)概要HPによると、豊橋市内から豊川インターへアクセスするためには豊川洪水浸水想定区域をを通らなければならないが、このスマートインターチェンジができることで、防災機能の強化につながるというそうだ。なるほど。

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2026/06/08

牛久シャトーとかっぱの日時計

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牛久シャトーは、シャトーカミヤ旧醸造場施設3棟のこと。「最初期の本格的ワイン醸造場施設」として、国の重要文化財に指定されてている。実業家の神谷傳兵衛が1903(明治36)年に茨城県牛久市に開設した本格的ワイン醸造場で、2020(令和2)年には、「日本遺産」に認定されている。街道歩きの途中だったため、じっくりと見学することはできなかったが、シャトーというだけあって、立派な建造物だった。

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牛久駅に戻るときに通った歩道橋上には、大きな日時計とかっぱ像があった。市内にはかっぱ像が多数あり、マンホールにはかっぱの絵がえがかれているなど、牛久市はかっぱのまちとなっている。牛久沼には、昔からかっぱ伝説があり、牛久在住の画家小川芋銭が、かっぱを題材とした作品を多く残したという。

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2026/06/07

水戸街道五日目/牛久宿から荒川沖宿まで

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2026年6月6日,水戸街道を若柴宿星宮神社から牛久宿を経て荒川沖宿まで、途中牛久シャトーへの寄り道1.5kmを含めて約16kmを約6時間で歩いた。今回はTさんとHさんとのほぼ三人そろっての街道歩きとなった。
今回は龍ケ崎市駅からのコミュニティーバスに間に合わせるために、品川駅から柏駅間は特急ときわ利用。快適だった。星宮神社をスタートするとすぐに牛久市内。成井一里塚を抜けると、林間の静かな道でいい気分。常磐線の踏切を越え、国道6号を渡り旧道に入ると、牛久宿の下町・上町となる。本牛久のヤマザキショップで豆大福をほおばりながら奥さんの話を聞くと、牛久宿本陣の家は東京へ転居したとか。
牛久宿上町の瑞雲山正源寺の山門は、鐘楼門となっている。山門前には仁王像がいてめずらしい。やがて、国道と合流。常磐線の牛久駅西口となる。昼食後、牛久駅を東口に抜け、牛久シャトーに向かった。

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牛久シャトーを見学後、国道6号に復帰。田宮山薬師寺の仁王門を見てしばらく北進すると、田宮(たぐう)バス停。この付近に田宮一里塚があったというが、痕跡はない。さらに4km進むと写真の中根一里塚がある。オオキンケイギクが咲いてきれいだが、これは特定外来植物。中根一里塚は江戸日本橋から数えて17番目の一里塚で、牛久市指定文化財(史跡)。この一里塚は東塚で、国道を挟んだ西塚は、荒川沖一里塚といい、土浦市の指定史跡である。この先、焼き芋専門店芋やすの交差点で国道と別れ乙戸川を越えると荒川沖宿。荒川沖駅で、この日の街道歩き終了。

 

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2026/06/01

遠州三山風鈴まつり

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遠州三山風鈴まつりに行ってきた。静岡県袋井市にある法多山、油山寺、可睡斎で5月23日から8月23日まで開かれている。
最初に行ったのは、高野山真言宗別格本山 法多山尊永寺。厄除け観音として知られる。本堂の両脇にはたくさんの風鈴が揺れる。また、展示室内には風鈴が赤くライトアップされ幻想的であった。帰りに名物厄除け団子を買ってきた。おいしかった。

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次に訪れたのが、医王山薬王院油山寺。行基によって開山されたという真言宗の寺。孝謙天皇が境内に流れる冷水で眼を洗ったところ、目の病気が治ったということから、目の霊山とされる。白内障が進行しないといいが・・・。山門は掛川城の大手門を移築したものという。この寺の御朱印は切り絵で素敵。

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最後に訪れたのが、秋葉総本殿、萬松山 可睡斎。火事にならないようにお願いした。風鈴の小道に2000個もの江戸風鈴がつるされ、素敵な音色を奏でていた。輪蔵堂のなかの輪蔵をゆっくり回した。売店で豆乳アイスを食べて帰った。

 

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2026/05/24

「がいなもん 松浦武四郎一代」を読んだ。

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「がいなもん 松浦武四郎一代」(河治和香著 2018 小学館刊 豊橋市図書館で借りる)を読んだ。107
「がいなもん、ちゅうのは、伊勢の方では、途方もない、とか、とんでもない、って意味ですなあ」

 松浦武四郎というのは、蝦夷地を北海道と命名したことで知られる。この本では、松浦武四郎の一代を、「武四郎涅槃図」の作製を武四郎から依頼された河鍋暁斎の娘豊(とよ=河鍋暁翠)の視点でえがいている。「武四郎涅槃図」とは正しくは「北海道人樹下午睡図」。松浦老人が依頼してから何年もかかっているので、暁斎は娘豊に催促に来る松浦老人の相手をさせている。明治16,7年ごろ、豊は松浦老人が集めた骨董品の絵をかいたり、松浦老人と東京のたくさんの知人宅に同行したりするなかで、若い時の6回(私人として3回、公務として3回)にわたる北海道探検の話を聞いている。豊は後に東京女子美術学校の教授となった。

 松浦武四郎は1818(文化15)年、 伊勢国須川村(現松阪市小野江町)で生まれた。生家の前を伊勢参宮街道が通り、1830(文政13)年のおかげ参りを目にして、「いつか、旅に出たい」と考える。13歳の時、津の儒者平松楽斎に弟子入りしている。武四郎は15歳の時、竹川竹斎から世界地図を見せてもらい、「蝦夷地」を知ることになる。そして、16歳の時出奔して江戸に向かった。一度は連れもどされたものの、再び旅に出た武四郎は様々なところで様々な人と出会った。
 旅の途中で、「遠く蝦夷地にはロシアの船が頻繁に出没している」と聞いた武四郎は、「蝦夷地を探検して、測量してみよう」と思った。武四郎が初めて蝦夷地へ渡ったのは、1844(弘化2)年、28歳の時であった。武四郎は、くまなく蝦夷地を探索する中で、アイヌの人との交流を図っている。当時アイヌの人々は、松前藩や和人からひどい搾取を受けていた。男性は村から駆り出されて低報酬で働かされ、女性は和人の妾にされ、人口がどんどん減ってしまったという。武四郎はそんなアイヌの人々の待遇を良くしようと現状を記すが、松前藩から命を狙われることになる。どうにもならない武四郎は、再度の北海道探検をあきらめ、骨董収集に精を出すことになる。1888(明治21)年に亡くなった。

 伊勢街道を歩いた時、松浦武四郎生家は見学したものの、松浦武四郎記念館の見学はスルーしてしまった。記念館には「武四郎涅槃図」が展示してあるという。ぜひ、行かなくては・・。

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2026/05/14

UC CARD解約

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UC CARDを解約した。就職したときに初めてつくったクレジットカード。他のカードを使っているので、最近はほとんど使っていなかった。50年弱利用で寂しい気もするが、断捨離していかなければ。

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2026/05/06

WHAT'S HAGISAN アクセス 147000

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WHAT'S HAGISANのアクセスが147000となった。正真正銘、自らGET!!

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2026/05/05

水戸街道四日目/取手宿から藤代宿を経て若柴宿まで

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2026年5月2日,水戸街道を取手宿から藤代宿を経て若柴宿までの約12kmを,寄り道を含めて約6時間で歩いた。今回もは街道歩きの仲間TさんとHさんとの三人での道中・・・だが、前回同様Tさんがとても詳しく取材しているので、Hさんと私は先へ先へと進んでしまった。
取手駅東口を出発し、まず大鹿山長禅寺に向かう。臨済宗妙心寺派の古刹で、931(承平元)年に平将門が創建したと伝わる。写真の長禅寺三世堂は、外観2層・内部3層の「さざえ堂」形式。以前、会津若松のさざえ堂(旧正宗寺)に拝観したことがあるが、上り階段と下り階段が別々になっている不思議な構造。茨城県の指定文化財になっている。
そして、取手宿本陣跡染野家住宅へ。ここへは、前回の水戸街道歩きで立ち寄っているが、Tさんが間に合わないということで建物の内部の見学はしていなかった。あらためて、見学。上段の間がある立派な本陣だった。
その後八坂神社を見学後、藤代宿へ向かった。途中広大な水田地帯を一直線に進んだが、強風にあおられ、水を張った田に落ちそうだった。水田地帯を進むうちに、黄門様のTさんと助格の我々二人はかなり離れてしまった。藤代町に入り常磐線の踏切を超えたところで20分ほど待っていると、ようやく黄門様がやってきたので、三人で昼食。昼食後リスタートしても、すぐに別行動。

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藤代宿を抜け、小貝川を文巻橋で渡ると龍ケ崎市となる。筑波山がはっきり見えるようになる。佐貫の市街地を抜けると若柴宿となる。若柴宿では、重厚な門構えの家屋が数多く見られた。牛久宿に近く、本陣のようなものはなかったらしいが、旧道の雰囲気が残る素敵なところだった。若柴宿はずれの星宮神社バス停から、龍ケ崎市駅東口に向かった。Tさんは、約1時間半後の終バスだったようだ。

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2026/05/01

富山新潟旅行三日目/春日山城跡・高田城三重櫓

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三日目は、上越市の春日山城跡ものがたり館と高田城三重櫓を見学した。上越市は、直江津市と高田市が1971(昭和46)年に合併してできた市で、新潟県上越地域の中心都市である。春日山城は旧直江津市にあり、上杉謙信の居城であった。昨年の山形旅行で訪れた米沢城も上杉氏ゆかりの地。春日山城は、山頂の本丸から屋敷跡や空堀などが連続する東裾野に、堀と土塁からなる総構(そうがまえ)が築かれているのが特徴で、総構は土塁や堀の一部が復元され、春日山城史跡広場となっている。春日山城跡ものがたり館では、上杉謙信や春日山城について学習した。今回は帰路ということもあって、春日山城の山頂に登るのは断念した。

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上杉氏が会津へ転封された後、春日山城は廃城となり、徳川家康の六男松平忠輝の居城として旧高田市域に高田城が築かれた。高田城には、三重櫓が復元されている。三重櫓からは、遠く妙高山を見ることができた。晴れていてよかった。
高田城見学後、上信越道、長野道、中央高速、東海環状道、東名高速と走って豊橋へ帰った。楽しい三日間であった。運転はすべて友人、お疲れ様。

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2026/04/28

富山新潟旅行二日目/長岡市馬高縄文館

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二日目は、糸魚川から北陸道で長岡市へ向かい友人の希望である馬高縄文館を見学した。長岡市馬高縄文館は、火焔土器の発見地である史跡馬高・三十稲葉遺跡にあり、火焔土器を含む馬高遺跡出土品を保存・展示する火焔土器ミュージアムである。パンフレットによると、「火焔土器」とは1936(昭和11)年に馬高遺跡で最初に発見された1個の土器につけられたニックネームで、それ以外の類似した土器については「火焔型土器と呼んで区別しているとのこと。縄文時代の特徴的な土器で、炎が燃え上がるような形をしている。火焔型土器の実物がたくさん展示されていて、圧巻だった。

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縄文土器にはいろいろな形状の土器がある。第6回長岡・縄文土器グランプリが開催中で、企画展「縄文土器入門~縄文土器の特色をさぐる」内のA~Hの土器へ人気投票ができる。Eの三十稲葉式土器(蓋)に投票してきた。このグランプリ参加者から3名に火焔土器レプリカが贈呈されるそう。当たるといいな。
長岡市馬高縄文館を見学後、近くの新潟県立歴史博物館にも寄った。ここにも火焔型土器が展示してあった。

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