「がいなもん 松浦武四郎一代」を読んだ。
「がいなもん 松浦武四郎一代」(河治和香著 2018 小学館刊 豊橋市図書館で借りる)を読んだ。107
「がいなもん、ちゅうのは、伊勢の方では、途方もない、とか、とんでもない、って意味ですなあ」
松浦武四郎というのは、蝦夷地を北海道と命名したことで知られる。この本では、松浦武四郎の一代を、「武四郎涅槃図」の作製を武四郎から依頼された河鍋暁斎の娘豊(とよ=河鍋暁翠)の視点でえがいている。「武四郎涅槃図」とは正しくは「北海道人樹下午睡図」。松浦老人が依頼してから何年もかかっているので、暁斎は娘豊に催促に来る松浦老人の相手をさせている。明治16,7年ごろ、豊は松浦老人が集めた骨董品の絵をかいたり、松浦老人と東京のたくさんの知人宅に同行したりするなかで、若い時の6回(私人として3回、公務として3回)にわたる北海道探検の話を聞いている。豊は後に東京女子美術学校の教授となった。
松浦武四郎は1818(文化15)年、 伊勢国須川村(現松阪市小野江町)で生まれた。生家の前を伊勢参宮街道が通り、1830(文政13)年のおかげ参りを目にして、「いつか、旅に出たい」と考える。13歳の時、津の儒者平松楽斎に弟子入りしている。武四郎は15歳の時、竹川竹斎から世界地図を見せてもらい、「蝦夷地」を知ることになる。そして、16歳の時出奔して江戸に向かった。一度は連れもどされたものの、再び旅に出た武四郎は様々なところで様々な人と出会った。
旅の途中で、「遠く蝦夷地にはロシアの船が頻繁に出没している」と聞いた武四郎は、「蝦夷地を探検して、測量してみよう」と思った。武四郎が初めて蝦夷地へ渡ったのは、1844(弘化2)年、28歳の時であった。武四郎は、くまなく蝦夷地を探索する中で、アイヌの人との交流を図っている。当時アイヌの人々は、松前藩や和人からひどい搾取を受けていた。男性は村から駆り出されて低報酬で働かされ、女性は和人の妾にされ、人口がどんどん減ってしまったという。武四郎はそんなアイヌの人々の待遇を良くしようと現状を記すが、松前藩から命を狙われることになる。どうにもならない武四郎は、再度の北海道探検をあきらめ、骨董収集に精を出すことになる。1888(明治21)年に亡くなった。
伊勢街道を歩いた時、松浦武四郎生家は見学したものの、松浦武四郎記念館の見学はスルーしてしまった。記念館には「武四郎涅槃図」が展示してあるという。ぜひ、行かなくては・・。









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