2023/09/30

豊橋別院で「徳川家康」講演会

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真宗大谷派豊橋別院で行われた「市民公開講座」に行ってきた。講師は歴史研究家・歴史作家の河合敦氏。「人質から天下を取った徳川家康の生き方に学ぶ ~最新の研究成果を踏まえて~」というテーマで,家康の人生をわかりやすく話してくれた。河合氏は,NHKの「歴史探偵」や日本テレビの「世界一受けたい授業」にご出演のほか,多くの時代劇の時代考証もされていて,その裏話を聞けて,とても楽しかった。
また,講演会の主催者が真宗大谷派のため,三河一向一揆のことや,浄土真宗の僧侶・親鸞・蓮如・教如などの話もくわしく聞けて良かった。

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この日は,豊橋別院の「御坊(ごぼう)さん秋まつり」も行われており,にぎやかだった。

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2023/09/10

間宮林蔵・探検家一代

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昨日までに,「間宮林蔵・探検家一代 海峡発見と北方民族」(髙橋大輔著 中公新書ラクレ2008年刊)を読んだ。
以前つくばみらい市の間宮林蔵記念館に行ったことをXでつぶやいたら,「おすすめ本.com」さんが,この本を紹介してくれた。最近の新刊かと思ったら,15年も前の発行なので手に入らず,豊橋市中央図書館で検索したら見事にhit。さっそく借りてよんだ。
間宮林蔵がたどった足跡を,この本の著者の探検家髙橋大輔氏が巡ったものだ。間宮林蔵は二度にわたってサハリンを探検し,二度目の探検でサハリンが島であることを確認した後,アムール川をさかのぼり,満州仮府デレンまで行った記録を詳細に紹介している。
髙橋氏は,ロシアのユーリ博士の案内で,ハバロフスクからデレン(現ノボイリノフカ)を経て,下流のプラバまで行き引き返したそうだ。プラバでは,北海道から逃れてきたアイヌの人と対面している。本当にすごい。

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2023/09/06

駿府城・天守台発掘現場

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先日,駿府城公園へ行ってきた。天守台の発掘調査現場を公開している。駿府城は,今川義元の屋敷跡付近に,徳川家康が築いた城。日本百名城に選ばれている。現在,天守台発掘調査が行われている。家康が駿河国を領国にした天正期と,大御所になった慶長期の天守台が発掘されている。

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駿府城の二ノ丸巽櫓は資料館になっている。巽櫓の北には東御門も復元されている。

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2023/08/01

医療戦士かく戦えり

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「幕末維新とパンデミック 医療戦士かく戦えり」(泉秀樹 著 2022年7月 日本医療企画刊)を読んだ。
新型コロナウイルスによるパンデミックのことかと思ったら,前に幕末維新と書いてある。なんと幕末には,1822(文政5)年,1858(安政5)年,1862(文久2)年の三度もコレラが流行し,それぞれ多数の死者が出たということだ。もともとコレラはインドの風土病であったが,ヨーロッパの大航海時代にヨーロッパへ広がり,中国や東南アジアにも広がったということだそうだ。江戸時代にはコロリと言って恐れられた。
安政のコレラ流行は,長崎に入港した外国商船が上海から持ち込んだコレラ菌が最初で,細菌による感染症であるという知識のない江戸時代の庶民の間で大流行したという。そんなとき活躍したのがオランダ人のポンペであり,ポンペが長崎奉行所内に開いた「医学伝習所」で学んだ松本順であった。また,適塾を開いた緒方洪庵も天然痘の治療に尽力した。
この本では,幕末の日本の医療だけでなく,当時の政治情勢も詳しく論述していて,大変興味深かった。明治期,明治10年,西南戦争で勝った凱旋兵士が乗った艦船内にコレラ患者がいて,関西全体にコレラが広がったという。この後,明治期にはコレラの大流行が何度も繰り返し起こったという。医療が進歩した現代に生きていることに,感謝。

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2023/07/29

倉吉打吹玉川/重要伝建地区

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鳥取県の倉吉は,古代伯耆国の国庁があったところで,中世には打吹城の城下町であった。江戸時代からは,商家町として栄え,玉川沿いには白壁土蔵群が残っている。

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この地は赤瓦の建物が多い。横綱琴櫻の出身地だそうだ。

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2023/07/27

日東第一形勝/鞆の浦・福禅寺 對潮楼

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念願の広島県福山市鞆の浦に行ってきた。友人の運転。約6時間の長距離を頑張ってくれた。朝鮮通信使の宿泊所となった福禅寺・對潮楼を見学。中学教科書に載っている風景・日東第一形勝そのものを見ることができ感激。美しかった。

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その後,鞆港の雁木と常夜灯を見学。重要伝統的建造物群の鞆町の町並み(港町)を見ることができた。鞆酒造の保命酒を買って,ホテル欧風亭泊。二日目は三朝温泉に泊まって,三日目に投入堂に挑戦した。

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2023/07/19

歴史の定説を破る

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「歴史の定説を破る あの戦争は『勝ち』だった 保阪正康著 2023 朝日新書」を読んだ。保阪さんは,BS-TBSの「関口宏・保阪正康のもう一度近現代史」に出演していた。番組での解説が分かりやすかった。

あの戦争とは,太平洋戦争のこと。保阪氏は,あの戦争で日本は壊滅的な被害を被った。それだけに,国家を全く新しいところから再建することができたという。ドイツも同じ。なるほどと思った。

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2023/07/05

三浦綾子/海嶺

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先月末までに,「海嶺〈上・中・下〉」三浦綾子著・角川文庫 1986(昭和61)年 を読んだ。3巻あわせて1200ページにもなる超大作だ。
物語は,1832(天保3)年10月10日,江戸に向け熱田港を出港した千石船「宝順丸」が遠州灘で遭難し,生き残った3人がアメリカの商船モリソン号で日本に送り届けられるも,幕府の異国船打払令により帰国できなかった史実を描いている。
海嶺〈上〉では,宝順丸に乗り組んだ船長・水主(かこ)の話と,遠州灘で嵐に遭い千石船の帆柱を切り倒し漂流することになったこと,漂流が1年2か月にも及び14人の乗組員のうち11人が死んだこと,生き残った岩松(岩吉),音吉,久吉が,アメリカ西海岸フラッタリー岬に漂着したことが描かれている。
海嶺〈中〉は,先住民の奴隷となっていた3人を,イギリスのハドソン湾会社のマクラフリン博士が助け,フォートバンクーバーを経て,イーグル号でハワイへ,そして南アメリカ大陸南端のホーン岬を過ぎ,イギリスのロンドンに着くまで。
そして,海嶺〈下〉。ゼネラル・パーマー号でマカオに着いた3人は,ドイツ人の牧師ギュッツラフの家で,聖書ヨハネ伝の日本語翻訳を手伝うことになる。翻訳が完成し,3人は九州で遭難した船の4人とともにアメリカの商船モリソン号で,帰国の途につく。しかし,喜びにあふれた漂流民が乗るモリソン号に対し,浦賀沖で大砲がうたれた。引き返して寄港した薩摩でも・・。漂流民の悲しみは,相当なものだっただろう。
幕府の鎖国政策の非常な面をみた。3人の漂流者は,ヨーロッパ人と接し,キリスト教に触れたことを常に恐れていた。それでも,祖国日本に帰りたいという願いを,江戸時代の日本は叶えなかった。悲しい歴史だ。

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2023/07/02

間宮林蔵記念館

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つくばみらい市の間宮林蔵記念館に行った。間宮林蔵は,蝦夷地や樺太(サハリン)を探検し,サハリンが島であることを発見したことで有名。ロシアの南下政策に対抗するため,幕府が蝦夷地の探索を命じていた。館内は写真撮影禁止で残念だったが,視聴した9分間のビデオで,間宮林蔵のおおまかな業績が分かり,有意義だった。伊能忠敬に蝦夷地で合い,弟子となって測量を学んだこと。北海道の南東部は,伊能忠敬による測量だが,大部分が間宮林蔵の測量によるものであること。サハリン探検ではアイヌの人たちの助けを得,海峡発見後にはアイヌの首長とともに中国の黒竜江を上ったこと。などがわかった。

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間宮林蔵の生家が残されている。林蔵は1780年(安永9)生まれ。林蔵は,16歳で川堰の工事のときの才能を認められて江戸へ出,村上島之允に師事したという。その後,村上島之允の従者として蝦夷地へ向かい,函館で伊能忠敬に出合っている。また,1826年(文政9年=林蔵47歳)には,最上徳内とともに江戸に来ていたシーボルトを訪ねたという。おおっ。

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2023/06/24

桶狭間古戦場公園

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名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園へ行った。名鉄有松駅から約4kmのゆったりコース。まず,標高54.5mの高根山に。ここに今川軍の先方松井宗信が陣をはり,織田方の中島砦や善照寺砦を監視したという。そして,釜ヶ谷,七ツ塚を経て,お目当ての桶狭間古戦場公園に到着。
左に織田信長,右に今川義元の像が並び,中央に「近世の曙」という石碑がある。しばし休憩後,公園の東を少し登り「おけはざま山」の「今川義元公本陣跡」に行った。長福寺の入口を通り,桶狭間神明社・戦評の松(3代目)を見学。戦評の松の前が,桶狭間寺前のバス停。見学していたら市バスが近づいてきたので,乗車し,有松駅へ向かった。曇りがちで厳しい日差しはなかったが,疲れた。

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信長は,善照寺砦に多数の旗を立て,信長が善照寺砦にいると見せかけておいて,釜ヶ谷にひそみ,折からの雷雨が上がってからおけはざま山の今川義元の本陣を急襲したという。

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